重たいインド取材撮影の旅 (平成6年 1994年)その8
インパールの取材内容は主に戦跡や当時を知る人のインタビューなどです。郊外の激戦地には日本政府が作った慰霊碑があるのですが、驚いたのは、現地の人々が建てた日本人慰霊碑があったりするのです。
現地の人々に話を聞くと、意外にも当時の日本兵に好意を持った感想を話してくれるのです。この地を日本軍が占領したのはせいぜい1週間とか短い期間です。その短い期間に現地の人と日本人との接触は私たちが思っているより、和やかで楽しい体験であったようです。そして、「日本兵は勇敢だった。でもイギリス軍は大軍だったので、みんな殺されてしまった。」と同情的な話がありました。中には、戦死した日本兵の遺品を大事そうに保管している人もいました。
また、郊外のある村では日本人への思い出と慰霊の歌を作って、歌い続けているとのことで、村の青年たちが私たちの前で歌ってくれました。私たちもまさかこういう取材内容になるとは、かなり予想外なことでした。そういえば、案内をしてくれた牧野さんが講師となって、現地の人たちに日本語を教えているそうです。帰る日の前日の夜に、その「日本語塾」の生徒さんが10名くらい集まって、私たちの歓迎会を開いてくれました。
インパール市内の例のレストランです。実はレストランの店主も生徒さんの一人なのだとか。2階席を貸切にしてくれました。料理はいたってつつましやかなナマズ?のフライなど例の料理です。そして飲み物は・・店主のおじさんが隠しておいた貴重なお酒が出ました。・・実はマニプール州は、飲酒が規制されているようで、お店で酒を提供することは、ご法度なのだそうです。店主のおじさんは法律違反の「危険を冒してまで」私たちにお酒を振舞ってくれたのです。まあ、少量ですけどね。
その中に秘蔵のお酒がありました。自家製のお酒だそうで、「公認の密造酒」と言っていましたが、それって、意味がわからないですね。「おめこぼしをしてもらっている」ということなんでしょうね。その「公認の密造酒」・・ラベルも何もないので、なんのお酒なのかわからないのですが、透明で、焼酎のような濃さでした。米焼酎のような口当たりで、大変飲みやすいお酒でした。みんなつい飲み過ぎてしまい、終わり頃にはかなりできあがってしまいました。
「生徒さん」たちとは言葉があまり通じないので、大したコミュニケーションがあったわけではないのですが、日本の歌を歌ってくれたり、ひじょうに和やかな会になりました。「いつかは日本に行って、勉強をしたい・・」というのが皆さんの「夢」なんだそうです。
外部との接触がほとんどない「辺境の地」といってもいいマニプールの人々は、日本や日本人に対してある種の「あこがれ」「敬愛」のような感情を抱いているようにも思えました。この地に来るときには、大変な緊張感をもって臨んだものですが、風景といい、人情といい、なんとも日本に帰ってきたような錯覚さえ覚えたものです。
そんなことで、あまりにもいろいろな体験となった中身の濃い、「重たいインド取材撮影の旅」でした。